遅生の故玩館ブログ

中山道美江寺宿の古民家ミュージアム、故玩館(こがんかん、無料)のブログです。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業でつづります。

小川栄一実査『西濃古墳分布図』

和紙に手描きされた岐阜、西濃地方の地図です。

小川栄一実査『西濃古墳分布図』

24.1㎝x33.2㎝。昭和(戦前)。

考古学者、小川栄一が実査した、岐阜、西濃地方の古墳分布図です。

中央やや下を東西に走るのは、東海道線です。

黒細線で縦、横に走るのは、私鉄です。

但し、地図の中央を、東から、加納、美江寺、赤坂、垂井を結んでいる黒線は中山道です。

青線は、河川を表します。

中央右を南北に流れるのは長良川、中央左は揖斐川です。

古墳分布図の右半分:

古墳分布図の左半分:

四分割すると、

分布図右上:

分布図右下:

分布図左下:

分布図左上:

小川栄一氏が、実際に調査した古墳が地図上に表されています。

前方後円墳、古墳、彌生式系時採集地、朝鮮土器採集地の4タイプが区分けされ、示されています。

古墳分布図の全体をざっと見渡すと、古代の遺跡は、

地図の中央や下方(南方)にはなく、右方(東)、上方(北方)、左方(西方)に分布していることがわかります。

特に、北部と西部に多く分布しています。

北部:

西部:

これらの地域に対して、古代遺跡は、中央部、南部にはほとんど見られません。

中央部、南部:

 

中央部を拡大すると、

見慣れた地名があります(^^;

実は、この西濃古墳分布図の中央は、

故玩館のある美江寺宿となっているのです。

そして、その近くに、ポツンと一箇所、遺跡が見られます。弥生式土器採集地、朝鮮土器採集地のマークがあります。森という小集落です。

私は、生まれてこの方ずっとこの地に暮らしていますが、この辺で古墳時代の土器が出現したとは、聞いたことがありません。小川栄一氏が発掘した結果は、その後、世に出なかったのかもしれませんね。

『西濃古墳分布図』

西濃地図(「日本の地形千景」より)

ところで、西濃古墳分布図の遺跡分布は、濃尾平野の洪水分布図や輪中分布図とよく一致します。擂鉢状の濃尾平野の地形とよく対応しています。山裾の小高い場所に多くの古墳があり、平地で出水の激しい場所にはないのです。

洪水が頻発する地域では、遺跡が見られないのです。

古墳時代あるいはそれより以前から、この地域には人が多く住んでいたけれども、遺跡に相当するものは、頻発する洪水で流失してしまったのではないかと私は考えてきました。

近隣の場所で見つかった土器類は、その傍証ではないでしょうか。

この辺は、今でも戸数の少ない集落が点在しています。

古代に大規模な集落があったり、政治社会の中心であった場所とはとても考えられません。

しかし、実はここは、かつて、伊勢神宮が一時的に在った場所といわれているのです。

『皇太神宮儀式帳』によると、約二千年前、豊鍬入姫命と倭姫命は、天照大御神の永遠の御鎮座地を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々を巡り伊勢国へ辿り着いたのだそうです。その巡幸の過程で14か所の地に滞在し、その中の一つが、ここ美濃伊久良(現在、居倉)でした。ここに宮があったのは四年間程だったと言われていますが、詳しいことは不明です。

ですから、土器類が発掘されても不思議ではないですね。

 

ところで、この古墳分布図を描いた小川栄一とはどんな人物でしょうか。

彼は、明治14年(1881)、岐阜縣揖斐郡の医家に生れ、医学校に入るも、愛知県で熱田貝塚を発見したことを契機にして考古学、歴史学に目覚め、郷土史の実証的な研究に一生をささげた人です。

徹底した現場主義で、地道に発掘をすすめ、収集資料は3万点を越えたといわれています。

まさに、岐阜県考古学の先駆者ですが、今では、知る人は少ないです。

また、小川栄一氏は、自己のコレクションをもとに、岐阜県初の個人博物館をひらいた人でもあります。

故玩館の大先達、偉人ですね、頭が下がります(^.^)